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江戸の範囲について

スゴイ
般に江戸御府内は町奉行の支配範囲と理解された。これらの御府内の異同を是正するため、文政元年(1818)に絵図面に朱線を引き、御府内の範囲を確定した。これにより御府内の朱引内(しゅびきうち)とも称するようになった。江戸の地名で呼ばれる地域は、江戸御府内ともいったが、その範囲は時期により、幕府部局により異なっていた。一元々は平安時代に存在した荏原郡桜田郷(江戸城の西南)の一部であったが、やがて豊島郡江戸郷と呼ばれるようになっていた。1818年、朱引の制定によって、江戸の市域は初めて正式に定められることになった。この町奉行の支配範囲とは別に御府内の範囲とされた御構場の範囲、寺社奉行が勧化を許す範囲、塗り高札場の掲示範囲、旗本・御家人が御府外に出るときの範囲などが決められた。江戸時代初期における江戸の範囲は、現在の東京都千代田区とその周辺であり、江戸城の外堀はこれを取り囲むよう建造された。今日「大江戸」としてイメージされるのは、一般にこの範囲であるその支配地は拡大していった。寛文2年(1662)に街道筋の代官支配の町や300町が編入され、正徳3年(1713)には町屋が成立した場所259町が編入された。さらに、延享2年(1745)には寺社門前地440カ所、境内227町が町奉行支配に移管された。明暦の大火以後、その市街地は拡大。通称「八百八町」と呼ばれるよ…
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